日常と表現の境界線

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date
Jan 26, 2025
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boyaki
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その近接点を探る1日だった
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中目黒の工場跡地に、アトリエとギャラリーが組み合わさった光婉という場所がある。そこで活動するアーティストの展示会に向かう前に、近くの公園で少し時間を過ごした。
芝生に寝転がり、空を見上げながら、周りの様子をぼんやりと眺める。縄跳びをする人、キャッチボールに興じる人、ランニングする人、犬の散歩をする人。それぞれが好きなように過ごしながら、不思議と場が成立している。その自由な空気に触れているだけで、幸せな気持ちになった。
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ギャラリーにも、同じような空気が流れていた。アーティストの制作現場を覗かせてもらったり、作品が生まれた背景を聞かせてもらったり。高尚な「アート」という構えた雰囲気はない。どちらかというと日常の延長線上にあるような、そんな場所だ。
それぞれのペースや見方で作品を鑑賞したり、ソファに座って談笑したり。程よい距離感を保ちつつも、時にして交わり、化学反応があちこちで生まれている。そこには「見る人」と「作る人」という固定的な役割はなく、むしろ表現をめぐる対話の中で、その境界線が曖昧に溶けていく。
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その流動的な関係性は作品の中にも表れていた。展示の中には音楽をモチーフに制作された作品があり、音が絵に変わり、それを見た人の中でまた別の何かが生まれる。形を変えながらも、表現は人から人へと伝わっていく。
私たちはみな鑑賞者である以前に、表現者でもあるということに気付かされる。最も純粋な表現の形は、日常の中で生まれる「感情」なのかもしれない。まずは「心が動く」ところから、その連鎖は始まっていく。
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自分の感情を殺さずに素直になること、そして、感情をなんらかの形で示すこと。それが結果的に表現になってくると、ふと思った。公園での自由な過ごし方も、そうであるように「上手い・下手」という価値基準は、そこには存在しない。
こんなような気付きと一緒に、足を運ぶ度に、忘れかけていた「自分と表現との距離」を優しく埋めてくれる、そんな場所だ。
P.S.(余談コーナー)
光婉(アトリエの名前)での記憶と言えば、以前に参加した音楽鑑賞のワークショップだ。その時は、表現に対する「鑑賞」の意味・意義に気付かされた機会だった。
「表現やアートといったものを、より身近な形にしていきたい」
運営されている方のこの言葉は、まさにこの場所が一貫して体現していることだった。後々、気付いたのだが、光婉には「公園」のように自由にオープンな場所を目指しつくられたという説明もあって、そうだよな〜〜とやたら頷いてしまったのであった。
 

© yokinist

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